2004年

ーーー2/3ーーー 山小屋
 
 先週の土日、群馬県某所にある「山小屋」へ遊びに行った。常連が「山小屋」と呼んでいるこの施設は、高い山の上ではないが、自然豊かな林の斜面に建っていて、「山小屋」と呼ぶのがまことに相応しい。

 はるか昔、NHKのドラマで「太陽の丘」というのがあった。とあるユースホステルが舞台となっていて、森繁久弥がそのオーナー役をやっていた。ユースホステルに集まる老若男女の様々な人間模様のからみがテーマだったと思う。子供だった私は、そんな大人らしい人間関係の世界に憧れを感じ、毎回楽しんで見た。今でもそのドラマのテーマソングを覚えているくらい、印象に残るものだった。

 「山小屋」は、私に言わせると、この「太陽の丘」の現代版である。オーナーや中心メンバーの氏名は、伏せておこう。いずれもそれぞれの道の達人で、名前を出せば今までの静けさが破られてしまう恐れがあるからだ。それでも私がここで「山小屋」の話を持ち出すのは、人には見せられない宝物の、自慢話をしたくてたまらない、下衆な根性からである。

 「山小屋」は究極の「遊びの場」である。小学生から、80過ぎの老人まで出入りする。基本的に自炊だが、オーナー女史がほとんど一人で、ときには十数名ぶんの料理を作ってしまう。そして、めいめい楽しく自分の時間を過し、夜は寝袋で雑魚寝をする。ここには料金という概念は無い。参加者一人ひとりがなんらかの形で自発的に貢献をする。強制されることはない。「山小屋」では仕事をすることが遊びであり、遊ぶことが生活そのものなのである。

 私は新参者だが、「山小屋」の歴史は30年に及ぶと聞いた。悩みを持った若者や、不良少年たちがここへ来て、迷いから抜け出せた例も数多くあったらしい。おかしくなりかけた若者がいたら、「山小屋へ連れて行け」だったとか。やはり現代版の「太陽の丘」なのである。

 このような場は、探せば日本中にあるのかも知れないが、それに出会うことができた者は、幸せである。おそろしく「まとも」であり、楽しく、そして心を豊かにしてくれる場である。それでいて、善良ぶった体裁や、求道者のような気負いはみじんも無い。すべては流れる水のごとく、自然に過ぎて行く。金と能率に毒された世の中に於いて、オアシスのような存在の「山小屋」である。

 このような世界が、せちがらい現代日本の中にも存在しているのである。嬉しいことだと思う。そして、この素晴らしい世界に身を置いても、さほど邪魔になっているようでもない自分自身を、少々誇らしく感じたりもする。



ーーー2/10ーーー 木食い虫

 
家具の部材の一つを加工している最中に、虫穴が見つかった。虫穴じたいは別に珍しいものではないが、今回は少々数が多いのと、そのうちの一つから木食い虫が摘出されたので、考えてしまった。製品になれば全く見えないところの部材なので、虫穴があっても体裁に影響はない。また、強度的にも、問題はない。ただ、後日製品の中から成虫が出てきたなると、これは印象が悪い。そういうトラブルは、無垢材の家具に於いては、まれに発生すると聞いたことがある。そんなことを理由に、製品の取り替えにまで発展した例もあったとか。今回の場合、一匹見つかったということは、他にも虫が居るような気がして不安であった。さりとて、部材を取り替えるとなると、手間と時間がかかる。実用的に問題ないのに、そこまでする必要もないと思われた。

 要するに、中の虫を殺してしまえば良いのである。しかし、木材の内部に生息している虫を殺すにはどうしたら良いか。スプレー式の殺虫剤を使う木工家もいるが、それでは入り組んだ穴の奥の虫まで殺すことは出来ないという説がある。バルサンなどの燻煙式の殺虫剤で燻す手もあるが、これもどれくらいの時間をかければ効果があるのか、データは無い。

 今回はたまたま部材の丈が短かったので、電子レンジを使ってみることにした。以前米国で、ペットの猫をシャンプーした人が、それを電子レンジに入れて乾かそうとしたら、猫が死んでしまい、電器メーカーを訴えたという事件があった。猫が死ぬくらいなら、木食い虫は死ぬだろう。

 部材をラップで包み、30秒くらいずつ何回かに分けてレンジにかける。最終的に、手でじっと持てないほどの熱さになった。電子レンジであるから、表面と内部は同じ温度になっているはずだ。この高温にさらされて、生命が維持できるはずがない。虫は灼熱地獄に悶絶しながら、成仏したに違い無かろう。

 実際に虫が居たかどうかは、知るよしもない。もし居たのだとしたら、この部材を取り付けた家具は、虫の骸を内部に秘めたまま、これからずうっと人に使われ続けることになる。なんとなく生々しくて無気味な連想ではある。



ーーー2/17ーーー ふり向くと 猫がいる

詩人の佐々木幹郎氏が、アームチェア「Cat」をお買い上げ下さり、ご愛用いただいていることは、以前このコーナーで触れた。その佐々木氏から、一篇の詩が届いた。 


#############################

ふり向くと 猫がいる
――大竹收の椅子に寄せて

             佐々木幹郎

ふり向くと 猫がいる
椅子の上に 猫がいる
いえ 椅子が猫
両耳を立てて
細い四つ足で こちらを見ている

この椅子に坐るとき
チェシャ猫みたいに 笑うこと
椅子の上のあなたは ゆっくりと消え
笑い猫になって 眠る

ふり向くと 猫がいる
両手を前に投げ出して 猫がいる
猫の上に坐ってみたら
猫の両手に手を添えてみたら
世界のすべてがまるくなる

この椅子に坐るとき
猫の両手の 丸い肉球にさわること
痛みや悲しみが 甘く溶けている
木は目をつむり 何も言わず

ふり向くと 猫がいる
いえ 椅子が猫
あなたが 猫

###############################


 当代一流の詩人にして文学者の先生から詩を戴くとは、なんと名誉なことだろう。そして、詩としての素晴らしさはもとより、私にとってはことさら感銘を受けるものがあった。

 心の通う家具を作りたい。それが私の願望である。使えれば良いというだけの安物家具なら、世の中にいくらでもある。一方、実用品というよりは、飾り物に近いような、高級装飾家具もある。私が目指すのは、そのどちらでもない。機能に優れた実用品でありながら、それを使うことによって豊かな気持ちになれる物。若いサラリーマンでもOLでも、ちょっと気合いを入れれば買える程度の価格帯で、なおかつ生活に潤いと楽しさを与える物。まるでペットと共に過ごす時間のように、肌を触れ、安らぎを感じさせてくれる物。それが私の目指す家具である。

 この詩はまさに、私が目標とし、夢に描いている家具の世界を、はるか高いところから降りてきて、優しく語ってくれる。ここにあるのは、褒め言葉ではなく共感。評価ではなく、感性の共有。百の文章より雄弁な、言葉のリズム・・・

「響く」という言葉で表現したら良いだろうか。何とも言えぬ感慨が沸き起こった。物を作る者として、こんなに嬉しいことはない。

 自分の作品が、文学という芸術分野と結びついたことが、また嬉しかった。今までとは全く違った角度から光が当り、自分でも気が付かなかったものが見えたような気がした。創作という行為はこんなにも楽しくて面白い。あらためてそのように感じた。



ーーー2/24ーーー 失望の材木

 ある材木店から僅かばかりの材木を、電話一本で購入した。その材木店とは、以前名刺を交換したことはあるが、取り引きは初めてであった。昨年の秋に、これこれのサイズの材木を安価に手に入れられないかともちかけたところ、最近になって連絡が入ったのである。

 私が希望していた材はなかなか見つからないのだが、それに近いもので格安が手に入ったというのである。たしかにひどく安い値段だったので、二つ返事で購入することを告げた。真面目に私のリクエストを追ってくれていたことが嬉しくもあった。翌日材木は宅配便で到着した。

 現物を見て、いささか失望した。想像していたよりも、だいぶ悪かった。5本の材のうち2本は、形状、寸法からいって、この価格ですら不相応に思われた。残りの3本は、形と大きさは良かった。他の2本が不十分でも、この3本で元が取れるボリュームであった。しかし、質が悪い。かなり「割れ」が入っていて、普通に使うのは無理のように思われた。

 形状の問題と、「割れ」の問題は、いずれも電話で知らされていた。だから騙されたわけではない。しかし、しっくり来ない気持ちは残った。材は悪いけれど、そのぶん値段が安い。その材で使える人なら、お買い物だろう。だが、その品質では使い道が無い者にとっては、いくら安くても意味が無い。三倍に薄められた酒は、いくら安くても飲めないのである。

 まあ、こんなことはくよくよ考えても仕方ない。何かに役立つよう、将来の課題として取っておこう。そんなふうに気持ちを整理するうちに、材木を購入するということの本質が頭をよぎった。今度はそれをテーマに、「木と木工のお話」を書いてみよう。





→Topへもどる